東西ドイツ統一から30年を迎える今年、DAADの奨学生として1989年から翌年の1990年までドイツに留学をされていた古関隆章教授(東京大学大学院工学系研究科)に、留学当時の様子について、貴重なお写真とともに回想していただきました。

はじめに: 昭和最後のDAAD応募
 古関隆章は、令和元年のDAAD東京事務所の奨学生派遣に関わる仕事をお手伝いし、自分がかつて留学の機会を与えていただいたことへの多少の御恩返しをする機会をいただいた。その際、自分自身が候補生としての選考を受けた昭和63年のDAAD東京事務所での奨学生選抜試験を思い出し、平成元年 6月5日から翌年秋までのドイツ滞在時の写真を東京事務所の皆様にお見せした。そのことがきっかけで、当時のことをそれらの写真とともに書き起こし、ここに投稿する機会を得ることとなった。
現在、令和を迎え、COVID-19の欧州での感染蔓延のニュースを脇目に見つつ、日本の大学関係者は年度末そして新学年の学務をどう安全に開始できるかという対策に追われている。東京オリンピックがどうなるかも含め、不確実性が溢れている昨今である。
私達は、はからずも日本から見れば平成最初の、そしてドイツから見れば、西ドイツが受け入れた最後のDAAD留学生となった。ほぼ30年前の写真をお見せし、平成の始まりもまた「不確実性の時代」であったことに触れつつ当時の風景を回想してみたい。

磁気浮上鉄道と初めての西ドイツ
 筆者が初めてドイツを訪れる機会を得たのは、自分が当時研究テーマとしていた磁気浮上・リニアモータを用いた鉄道が、西ドイツで実用化の時期を迎え、EmslandのTransrapid 試験線の南北のループが完成し、Transrapid 07が最高時速 430km/hでの連続走行試験ができるようになったことを記念し、1988年6月にHamburgで磁気浮上国際会議が開催されたときである。

西ベルリンの壁、現在のベルリン・フィル付近を走行していた M-Bahn (1989年11月撮影)

そのときには、西ベルリンの壁に沿って、都市交通用の永久磁石を用いた磁気浮上鉄道 M-Bahnも西側の先端技術の東側に対するデモという役割を担いつつ、運行が開始された時期だった。その国際会議で、Aachen工科大学の電気機械の研究室を見学させていただくとともに、ドイツでご指導をいただくこととなるBraunschweig工科大学のHerbert Weh先生に国際会議でご挨拶をさせていただき、西ドイツの恵まれた環境のもと学んでみたいという気持ちを強く抱くようになった。

西ドイツへの渡航と天安門事件
 ドイツ語は大学の教養課程で習ったものの、すっかり忘れてしまっていて赤坂の Goethe- Institut東京のGrundstufeのクラスで自分なりの準備をした。その際、Goethe-Intitutの近くの大きなマンションのようなビルに高々とドイツの国旗らしき三色の旗が上がっていた。その真ん中にあまり見慣れない複雑な紋章のようなものがついていて、当初その意味が理解できなかったが、それはドイツ連邦共和国ではなく、ドイツ民主共和国の国旗だった。当時は、ソビエト連邦のゴルバチョフ書記長の時代で、ペレトロイカ、グラスノスチという開放政策が取られているということが話題となっていたものの、世界は厳然とした東西冷戦の下にあった。
4ヶ月の語学研修を受ける奨学生は、6月の最初に成田を出た。Göttingenでの6月からの語学研究を予定していた心臓外科医の渡邉剛氏(当時金沢大学)、人文地理学の中川聡史氏(当時東京大学)等と成田空港で知り合い6月4日に日本を出て、Frankfurtの空港に夜遅くついて、翌日の朝、Göttingenの街に向かった。

ドイツで最初に見たもの:Göttingenの街の1989/06/04に起きた天安門広場での弾圧に講義する学生デモ(1989年6月撮影)

その大学街Göttingenで最初に経験したのは、中国人と間違えられて?わけもわからず参加することになった学生デモだった。当時はインターネットで情報を得るという手段もなく、飛行機とFrankfurtのホテルの滞在でニュースから隔絶された中、北京では大変なことが起きていたようだった。
その後、両親が日本から郵送してくれた日本の新聞切り抜きで、数日遅れで詳しいことを知った。テレビもまだ持っておらず、国際電話も高かった当時、ドイツ語があまりできない中で、情報を得る手段は日本の家族から郵送される新聞の切りぬきなどを待つか、あるいはNewsWeekやTimeなどの英文の国際誌を懸命に読むということに限られていた。ただし、中国以外のことに関しては(?)中国系の学生が持っている旧字体の漢字で書かれた人民日報(国際版)も、手早く概要を知るのに比較的便利な手段であった。

Göttingenでの大学入学準備と国際性に富んだ学生生活
 語学研修は、4ヶ月で大学入学資格試験合格まで実力を高めるという目標を掲げたDAAD奨学生の特別集中クラスで、国際性に富んだものだった。特に中国やブラジルの学生と日本人学生は親しくなった。筆者を含む日本人学生は総じて、ドイツ語での会話があまり流暢にできずクラスの議論でも多くを発言できなかった。そのため、あまり学力がないと思われていたようだ。

Goethe Institut Göttingenの愉快な仲間たち(ブラジル、中国、日本、エジプト、アルジェリア、パラグアイからの学生とドイツの先生 1989年9月撮影、1列目の真ん中が筆者)

しかし、9月の試験結果では、合格者上位を日本人学生が占めたため、「お前らはなにかずるをしたろう」と言われて心外だったことを覚えている。試験では、たとえゆっくりでも綴りや文法的に正しい表現をすることのほうが重視されるので、私達から見ればそれは当然の結果だったが、自分たちのほうが語学力が遥かに上だという実感を持っていた彼らから見ると、そのように感じられたのだろう。
30年を経た今、欧州で新型コロナウイルスの急速な感染拡大が社会問題化する中で、これだけ人口も多く社会的行動規制が緩い日本で、感染拡大が緩やかであるという事実が正しく理解されず、「日本政府は不正な情報操作をしているのではないか」と疑惑の目を持って見られていると聞くが、ここにも似たような誤解があるようだ。東京にいて、私達が2月後半から、かなり注意深く手を洗い、不要不急の外出を控え、自主的に公衆衛生を維持する努力を懸命にしているとの実感の中、現状は私達にとって自然な展開であり、なにか不都合なことが隠蔽されているという実感は全くない。日本人は日本の良さをもっと積極的に発信し諸外国から正しく理解してもらえるよう努めねばならないだろう。

Braunschweig工科大学での研究生活と鉄のカーテンの崩壊
 受験生の緊張感を持ちながらも、夏の明るく穏やかな光のもと過ごしたGöttingenでの楽しい学生生活を終え、いよいよ研究のためにBraunschweig工科大学に9月末に向かった。秋をすぎると、ドイツ北方では急速に日が短くなり、暗く寒い冬に向かう中、あまり知り合いもいない大きな町で、かなり寂しく感じられる日々が始まった。後にはとても良き友人となったドイツの同僚も、

Braunschweig 工科大学 語学教室の愉快な仲間たち(出身国 イタリア、フランス ギリシャ 1989年12月Berlinにて撮影)

最初はなかなか取り付きにくかった中、Braunschweig工科大学のドイツ語クラスにいた外国人学生たちが、新たな友達として、気分の沈みがちなBraunschweigでの生活の初期の精神的支えとなってくれた。
Braunschweigは当時の東西国境に位置していたHelmstedtを越して最初にある西側の大きな町であった。11月9日に突如東ドイツ政府が東西の国境の封鎖を解き、旅行の自由を認めるという宣言を出したということを、リアルタイムに知ることはできなかった。しかし、その翌朝に、見たこともない小さな車で道が渋滞し、町の空気がくすんでいたことで、何か普通でないことが起きたことを感じた。研究室に行き、何か今日は変だねと言うと、お前何が起こったのか知らないのか?とドイツ人の同僚に驚かれた。その後、トラバントという東ドイツの車の渋滞とともに、銀行の窓口、バナナの売り場、そしてマクドナルトに長蛇の列がしばらく続いた。(当時、同じドイツマルクも、東と西では貨幣価値に10倍の差があると言われていた。東ドイツの人は、ぶどうやりんごは食べらるが、バナナを見る機会はほとんどないと言われていた。もちろん、マクドナルドは東ヨーロッパには皆無の店であった。)その翌月の12月上旬に、上記の「愉快な外国人仲間」がBerlinへの夜行バスツアーを企画し、一緒に、急激な変化で人々が沸き立っているベルリンの町を訪れた。

冷たい雨にさらされたとても寒い1日だったが、現在ではBerlin市の中心として落ち着い佇まいを見せているBrandenburg門付近の、通行の自由に沸き立った風景を直に見て、

「東独最高製品」のハンマー試験

鉄のカーテンの象徴的存在でとなり東ドイツ製で最も優秀な工業製品と皮肉られたBerlinの壁の物理的堅牢さを実感し、また、それまで見ることのできなかった2つの壁の間の風景を覗き見る機会が得られたことは、貴重な経験となった。

東西ドイツの統一から始まったその後の世界情勢の大きな変化
コール首相の精力的な国際交渉とドイツ人の強い願いが稔って、その後の展開は1989年末の時点では想像もできなかったくらい急速に進んだ。この年は、イタリアで開催されたサッカーのワールドカップでドイツが優勝した年でもあり、ドイツの人々が力強い統一国家、技術や経済の発展の見込める明るい未来に向けた高揚感に満ちているように感じられた。
研究の合間を縫って、最後の年の東ドイツを訪れ、空気汚染の影響ですっかり黒ずんでしまっている教会の石碑やあまり整備の良くない車道などを見た。

1990年春の東ドイツの風景

自分の帰国予定は9月30日であったが、DAADにお願いをして、1週間の私的なドイツ滞在をお認めいただいた、1990年10月3日、ワイツゼッカー大統領の格調高い演説と共に、東西のドイツが一つになった。その夜の花火を見ながら、Braunschweigで研究室の同僚と共に祝うことができた。

おわりに: 研究対象であった磁気浮上技術のその後
 このように人生における貴重な体験の機会を与えてくださった、日独の2人の恩師、DAADご関係、そしてドイツでお世話になった様々な方々に、ここに心からの感謝を申し上る。年月を経て、現在筆者も多くの留学生を自分の研究室に受け入れる立場となり、このドイツでの体験は、専門的にも、人間関係の考え方の点でも、自分の基盤となっている。
その後、自分の研究対象であった磁気浮上鉄道は、BerlinとHamburgを結ぶ新たな高速鉄道として注目を集め、活発な議論の対象となったが、様々な経緯を経て残念ながらドイツでの実用化は断念されることとなった。Google MapでDörpenとLathen付近の航空写真を見る限りEmslandの試験線は今もその構造物が現地に残っているようだ。その技術は現在、中国の上海で、Chinese Maglevとして活用されている。一方、ドイツの高速都市間交通は、ヨーロッパ高速鉄道網の中で、もっぱらICEに代表される鉄車輪式の高速鉄道によるサービスの拡充が図られている。
日本ではTransrapid-04の流れをくんで日本航空株式会社がライセンス導入をし、名古屋鉄道株式会社関係者がその開発を継承したリニア誘導モータ駆動の都市郊外形の磁気浮上鉄道HSSTが、2005年から愛知高速交通株式会社のLinimoとして愛知県で営業運転され、地域の発展に貢献をしている。
また、ドイツとの専門家相互の交流を深めながらも、

中央新幹線として建設の進む JR-Maglev

ドイツ由来の技術と異なる発展経緯を持つ日本の独自技術の成果としては、超電導誘導式の浮上・推進方式を持つ東海旅客鉄道株式会社のJR-Maglevが挙げられる。これについては、2027年の品川ー名古屋間の部分開業を目指したリニア中央新幹線としての建設が現在進められている。